福島地方裁判所 昭和42年(わ)59号 判決 1967年6月07日
被告人 佐藤陽次郎
主文
被告人は無罪。
理由
本件公訴事実の要旨は、
被告人は、自動車運転の業務に従事するものであるが、昭和四一年一〇月九日午前一〇時一五分ころ、福島市成川字戸の内五三番地先国道一一五号線道路舗装工事現場において、アスフアルト合材を積載した大型貨物自動車を運転後退しようとしたが、当時附近には一〇数名の作業員が作業中であったから、誘導者の指示に従うのはもとより、あらかじめ誘導者の位置を確認し、同人との間に充分安全な距離間隔を保ちつつ後退し、且つ後退中も常にバツクミラー等により誘導者の行動注視につとめるべき注意義務があるのにこれを怠り、自車右側後方のみ注視し、左側後方で「オーライ」の声をかけて誘導していた作業員阿部正典(当二四才)の位置行動等を注視することなく、時速約五キロメートルで後退した過失により、自車左後部を同人に衝突転倒させた上轢圧し、よつて腰椎破裂、右鼠蹊部破裂、左胸部肋骨骨折の傷害に基づく内臓破裂により、同所において、死亡するに至らしめたものである。というのである。
よつて判断するに、
一、被告人の当公判廷における供述、被告人、茂木賢二、渡辺勝男の検察官に対する各供述調書、証人茂木賢二、同渡辺勝男に対する当裁判所の各尋問調書、当裁判所の検証調書、実況見分調書、医師辻陽一作成の死体検案書を総合すると、次の事実が認められる。
(一)本件公訴事実記載の場所は、西は上湯方面、東は方木田方面に通ずる国道一一五号線(通称土湯街道)で、幅員八・四メートルであるが、当時はアスフアルト舗装工事のため、道路中央線に沿つて鉄の杭を立て並べ、これに綱を張つて道路北半分のみの一方通行となし、南半分の工事現場は工事関係者以外の立入、通行を排除していたものであるが、右道路の南端にはコンクリート製の側溝があり、これに接する南方一帯は畑が広がつており、当時は天候もよく、また同所は見通しのよい、ほぼ直線の道路であり、また工事中とは云え、アスフアルト舗装も第一回目が終つており、当時は第二回目であるので、路面も平坦で乾燥しており、路上には特段の障碍物もなかつた。
(二)被告人は、自己所有の積載量七・五トンの大型貨物自動車を運転して、福島市荒井からアスフアルト合材を積んで、本件道路の東に置かれたアスフアルト・フイニツシヤー(道路に合材をひきならす機械)迄の運搬に従事していたもので、本件公訴事実記載の日時には、第三回目の運搬中で、先ず本件工事現場の土湯寄りの西端に至り、ここで旗を振つていた四〇才位の婦人の誘導で方向転換を行ない、工事部分の道路を、中心線から南に約三〇センチメートルの間隔をとつて後方(東方)の前記フイニツシヤーに向つて真直に後退を開始したのであるが、その際の自動車左端から道路の南端側溝迄の距離は一・五メートルである。
(三)その際右工事現場には一七、八人の工夫が居つたが、いずれも道路わきに腰を下して、被告人の車が到着するのを待機していたほかは、工事関係者以外には誰も居ないことを確めたうえ、最初は車の右後方の中心線附近に居た茂木賢二が右手を振つて「オーライ」と云う誘導に従い、運転席右側の窓から顔を出して後方を見ながら時速約八ないし五キロメートルで約三七メートル後退した際、車の左後方にいた阿部正典が車から二、三メートル離れて、道路南端から〇・四ないし一・三メートルの距離を歩行しながら「オーライ」と云いながら誘導を開始し、これを知つた前記茂木は誘導を止めたのであるが、阿部は自動車運転の経験もあり、右茂木と共に工事現場における車の誘導にも従事していたものである。被告人はその頃、左バツクミラーで後方を見ながら、通称「カンテキ」(火をたく道具)に衝突しないよう注意してこれを通過した後は、前同様、左バツクミラーを見ずに、速度を人の歩く速さか、それよりも遅い位の速さ(時速約四キロメートル)に落して、今度は右阿部の誘導に従つて約二一メートル後退した所で、阿部は最後の「オーライ」を云つて、更に三・一五メートル歩いて、前記側溝からスコツプを拾い、これを曳きずりながら更に一二・七メートル位歩行した際突然転倒して、自ら声をあげるひまもなく、被告人の車に轢かれ、公訴事実記載の通りの傷害により即死するに至つた。
二、ところでおよそ自動車運転の業務に従事する者が、一般の車輛や公衆が通行する道路上で自動車を後退させるにあたつては、絶えず自動車の後方附近の安全を十分に確認しながら後退させなければならない注意義務のあることはいうまでもないところであるが、本件においては前記認定のとおり、工事関係者以外の立入、通行のない工事現場であり、居あわせた一七、八人の工夫達も被告人の車がフイニツシヤーに合材を移す迄は作業もなく、道路わきに待機していたものであり、白昼で天候もよいうえ、同所はほぼ直線で見通しが極めて良く、路面も平担で乾燥しており、特別の障碍物もない所で、而も被告人の車輛の南側には道路南端の側溝まで一・五メートルの十分の間隔があるのであるから、これを確認したうえで被告人が、人の歩く程度のゆつくりした速度で真直に後退したのであるから、車輛左側(南方)後方には殆んど危険がなかつたものであり、ましてや、自動車運転の経験があるうえ、工事現場での車の誘導にも従事していた阿部正典が、自らすすんで声をかけながら誘導している以上、右の事実をよく知つている被告人としては、特段の事情のない限りは、左側後方の安全の確認は同人に任せて、自らは主として右側後方の安全確認に注意の重点を向けたのは当然であり、また、右阿部本人の安全については、前記の通り十分の経験を有する誘導者である以上、特別の事情のない限りは、自ら身の安全を守り、自らその危険に身をさらすような行動はとらないものと期待して運転するのもまた当然と云わなければならない。
右阿部は前記認定の通り誘導の途中、側溝に寄つて、スコツプを拾う頃からは「オーライ」の声を発していないのであるが、同人がこの頃から誘導を中止したものとしても、それ迄二一メートルもの距離を自ら誘導して来たものであり、また被告人の車輛が前記の通り平坦な道を人の歩く程度の低速度で真直に後退しており、車輛と道路南端の側溝までは一・五メートルの距離があり、更に側溝の南は畑であつて、このような事実を十分熟知しているのであるから自ら危険を避け、自己の安全を守るべきことは極めて当然にして且つ極めて容易であつたのに拘らず、本件事故に至つたことは全く不可解であつて、同人がたまたま後退車輛に接近し過ぎたために衝突転倒したとしても、これは右阿部の不注意によるものと云うべく、その他特段の事情の認められない本件においては、誘導者たる阿部の不測の行動を慮つて、その位置、行動を絶えず注視しないで後退したことを以て、被告人が業務上の注意を怠つたものとしてその刑責を問うことは酷に過ぎるものと云わなければならない。
以上の通り結局被告人には、刑責を問うべき業務上の過失はなく、本件公訴事実は犯罪の証明がないことに帰するから、刑事訴訟法第三三六条により、被告人に対し、無罪の言渡しをすべきものとする。
よつて主文のとおり判決する。
(裁判官 中村護)